1945年(昭和20)3月23日から沖縄諸島は米軍の激しい空襲にみまわれた。
24日からは艦砲射撃も加わった。沖縄上陸作戦の開始である。
グアム島を発進した沖縄攻略部隊は、艦船約1500隻、上陸部隊七個師団183000人、後方の支援部隊を加えると総勢548000人の兵員を投入した。
このほか、イギリス太平洋艦隊がアメリカ第五艦隊に所属して宮古・八重山に艦砲射撃を加えた。
米軍の最初の目標は、慶良間諸島の確保であった。沖縄本島上陸にそなえて、水上機基地と艦隊投錨地を確保し、神山島を占領して沖縄上陸の掩護砲撃をするためであった。
米軍は、空母と駆逐艦の護衛のもとに上陸作戦にのぞんだ。
3月26日、阿嘉・慶留間・座間味に上陸、27日には渡嘉敷に上陸、29日には慶良間全域を手中におさめた。
この戦闘の間に、慶留間・座間味・渡嘉敷では、日本軍の強制によって凄惨(せいさん)な「集団死」事件がおこった。
米軍は、沖縄本島上陸前の1週間で約40000発の砲弾を撃ち込み、延べ1600機の艦載機で銃爆撃を加えた。
4月1日、米軍は沖縄本島中部西海岸の読谷山・北谷に上陸、北飛行場と中飛行場を占領し、4月5日頃までには宜野湾村宜野湾以北の中部一帯を制圧した。
米軍の上陸地となった読谷山村、北谷村などでは、住民の悲惨な「集団死」事件が発生した。
米軍は4月5日、読谷山村比謝に海軍軍政府を樹立、ニミッツ布告を発して軍政に着手した。 沖縄戦後史の始まりである。
上陸米軍の主力は首里方面へ向けて進撃し、米第六海兵師団は海岸線づたいに北上した。
4月2日には東海岸の石川に進出し、4月5日頃には金武・宜野座の海岸線を制圧、7日には久志村の瀬嵩に達した。
西海岸を北上した米軍は、4月6日に幸喜に上陸した部隊と合流し、7日に屋部、8日に伊豆味に進出、9日に運天港からも上陸した。10には、本部半島を包囲し、次第にその包囲網を狭め、宇土部隊の籠っている八重岳に集中砲火をあびせた。羽地に入って本部半島を遮断して北上した部隊は、4月13日には辺戸岬まで進攻した。
伊江島では4月16日に米軍が上陸し、21日には島全体を制圧している。生き残った住民約1700人は、米軍によって渡嘉敷島に移送された。
米軍は伊江島飛行場を本土侵攻の拠点として拡張強化していった。
その後の伊江島の人びとは、赤松隊の降伏の後に沖縄本島東海岸の久志村大浦崎に移され、それから本部の健堅の浜に移動し、島に帰ったのは敗戦の翌年であった。
上陸部隊の主力は、首里の日本軍主陣地をめざして総攻撃を開始した。
首里北方の浦添村前田、宜野湾村嘉数の嘉数高台を中心に、一進一退の攻防戦が40日間も続いた。
この戦闘で日本軍は主戦力の8割を失った。
5月下旬、首里は陥落した。牛島司令官は首里を放棄して、島尻の摩文仁へ撤退した。首里撤退のとき、牛島司令官は八原高級参謀に次のように語っている。
「余が命を受けて、東京を出発するに当たり陸軍大臣、参謀総長は軽々に玉砕してはならぬと申された。軍の主戦力は消耗してしまったが、なお残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、そして沖縄の島の南の涯、尺寸の土地の存する限り戦い続ける覚悟である」。
沖縄守備軍のこのような方針は、沖縄戦の最後まで貫徹された。
6月中旬頃には、日本軍の残存兵は、南部に追いつめられていた。直径7キロメートルの円内に入るような狭い地域に、30000人の日本軍と100000万人の住民がおしこめられていた。
日本軍は住民の避難壕を奪い、あるいは軍民雑居の壕では泣き叫ぶ乳幼児を殺害した。
米軍は、洞窟にかくれている住民と日本軍に投降をよびかけた。しかし日本軍は、投降勧告にしたがって出ていこうとする者を射殺した。
米軍は、陸上からは砲兵部隊と戦車部隊によって、海からは艦砲射撃によって集中砲火をあびせた。
1平方メートルに1発の割合で砲弾が降ってきた。歩兵部隊は火焔戦車と手りゅう弾によって、洞窟をひとつびとつ攻撃して、日本兵をせん滅していった。
米兵は、これをジャップ・ハンティングといったが、バックナー中将の戦死後は、報復のための住民虐殺も増えた。
6月22日、牛島満司令官・長勇参謀長らの自決によって沖縄戦の組織的な戦闘は終わった。牛島司令官らの自決以後も、なお戦闘はつづいた。
真壁村の真栄平一帯で戦闘をつづけた第24師団(山部隊)の残っていた将兵が自決したのは6月30日であった。
米軍が沖縄作戦の終結を宣言するのは7月2日であるが、その後も洞窟にたてこもった日本兵の抵抗はつづき、8月下旬になって集団投降する例もあった。
宮古群島や八重山群島では、8月15日まで実質的には戦闘状態がつづき、9月上旬になって日本軍の武装解除がおこなわれた。
沖縄戦は〈島の戦争〉であったから、島ごとに地域ごとに戦闘開始の時期と終結の時期が異なっている。場合によっては、同じ地域の住人であっても、米軍に収容された時期を異にしている。戦後生活の始まりが、それぞれに異なっているということである。
米軍の第十軍司令部は、6月22日、「アイスバーグ作戦」(沖縄攻略作戦)の終結を公式に発表しているが、局地的な戦闘はなお続いていた。
沖縄戦が実質的に終結したのは7月以降と考えられるが、日本本土では8月6日と9日に広島と長崎に原子爆弾が投下され、甚大な被害を受けている。
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